フィンセント・ファン・ゴッホ略年譜 | |
1853年 | 3月30日、オランダ南部フロート・ズンデルトに、プロテスタントの牧師 テオドルス・ファン・ゴッホとアンナ・コルネリア・カルペントゥスの長男として誕生。 |
1857年(4歳) | 5月1日、弟テオドルス(通称テオ)が誕生。 テオは後に画商となり、生涯にわたって兄を支えた。 |
1866年(13歳) | ティルブルフのヴィレム2世国立中等学校に入学したが、1年半で中退。 故郷ズンデルトに戻る。 |
1869年(16歳) | 7月30日、伯父が設立した国際的な美術商グーピル商会(本店はパリ)の ハーグ支店に見習いとして就職。 |
1873年(20歳) | 1月1日、テオがグーピル商会に就職、ブリュッセル支店に配属される。 6月13日、フィンセントはロンドン支店に勤務。 下宿先の娘ユージェニーに恋心を抱くが失恋。 |
1875年(22歳) | 5月、パリ本店に転勤したが、支配人や店員との関係が悪化。聖書への関心を深める。 |
1876年(23歳) | 4月、グーピル商会を辞め、エッテンに移っていた両親の元に戻る。4月半ば、イギリスの ラムズゲイトの寄宿学校に教師となる。夏には学校移転に伴い、アイルワースに移る。 11月、メソジスト派の補助説教師として活動を始める。 |
1877年(24歳) | 1月、ドルトレヒトの書店に勤めるが、まもなく辞職。5月、聖職者になろうと考え、 アムステルダムで大学神学部の受験準備を始めるが、1年で断念。 |
1878年(25歳) | 8月、ブリュッセル郊外ラーケンの伝道師養成学校に入学。3ヶ月学んだが、 資格は得られなかった。12月、ベルギー南部ボリナージュ炭坑で、 臨時説教師として伝道活動を行う。 |
1879年(26歳) | 7月、極端な熱意が災いして、伝道委員会から解雇される。貧しい炭坑夫の間で生活し、 スケッチを残す。11月、テオがグーピル商会パリ支店に転勤。 |
1880年(27歳) | 8月、画家になることを決意。ミレーの《種まく人》《田園の労働》等の複製画を熱心に 模写する。10月、ブリュッセルに移り、アカデミーで学ぶ。 同郷の画家ファン・ラッパルトと知り合う。 |
1881年(28歳) | 1月、テオがグーピル商会パリ支店長となり、生活が困窮した兄フィンセントの援助を始める。 11月、デン・ハーグで従兄弟の画家アントン・マウフェの指導を受ける。 |
1882年(29歳) | 1月、マウフェから本格的に素描を学ぶ。身重の娼婦シーンと知り合い、同棲を始める。 3月、画商の伯父コルネリス・マリヌス・ファン・ゴッホから、初めて風景画の注文を受ける。 |
1883年(30歳) | 9月、シーンとの関係が破綻。オランダ北東部のドレンテに移り、泥炭地帯の風景や 働く人々を描く。12月、ニューネンにいた両親の元に戻り、農民画を中心に画家として 独自の道を歩み始める。 |
1885年(32歳) | 3月26日、父が脳卒中で急逝。5月、ニューネンの農民の生活を描いた 《馬鈴薯を食べる人々》が完成。パリにいたテオの元へ送る。 11月、アントウェルペンに移住し、都会の貧しい人々を描き始める。 ルーベンスの色彩と筆触に感動する。 |
1886年(33歳) | 3月、パリにいたテオのアパルトマンに転がり込み、同居を始める。この時期に自画像を 多数制作。4月以降、フェルナン・コルモンのアトリエに通い、ロートレックや エミール・ベルナールと知り合う。画材商ジュリアン・タンギーの顧客となる。 |
1887年(34歳) | 3-4月、カフェ・ル・タンブランで自ら蒐集した浮世絵の展覧会を開催。浮世絵の影響が 顕著となる。4-5月、シニャックやベルナールたちとセーヌ河畔で制作する。 11月、友人たちと「プチ・ブルヴァールの画家たち」展を開き、ひまわりの静物画などを出品。 |
1888年(35歳) | 2月20日、パリの喧噪を離れて、南仏のアルルに到着。 5月、ラマルティーヌ広場に面した「黄色い家」に部屋を借り、移り住む準備を始める。 10月23日、ポン=タヴェンにいたゴーギャンがアルルに到着。二人の共同生活が始まる。 12月23日、ゴーギャンとの激しい口論の末、ゴッホは左耳下部を切り落とし、 アルルの病院に収容される。 |
1889年(36歳) | 4月17日、テオがヨハンナ=ボンゲル(通称ヨー)と結婚。 4月末、サン=レミのサン=ポール=ド=モゾル精神病院に自発的に入院、ペイロン博士が 担当医となる。9月、第5回アンデパンタン展に《ローヌ川の星降る夜》《アイリス》を出品。 |
1890年(37歳) | 1月、ブリュッセルの「レ・ヴァン(20人会)」展に招待され、《ひまわり》など5点を出品。 1月31日、テオの息子フィンセント・ヴィレムが誕生。5月16日、サン=レミを離れ、 テオ宅を訪問した後、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに到着。 精神科医ポール・ガシェの診察を受け、一家との交流が始まる。 7月27日、麦畑の近くで胸を拳銃で撃ち、自殺を図る。 7月29日、テオに看取られながら死去。オーヴェールの共同墓地に埋葬される。 翌年1月、テオも後を追うように死去。後にフィンセントの墓の隣に埋葬された。 |