1888年2月、温暖な気候を求めてアルルに到着したゴッホを迎えたのは、思いがけない雪であった。春の訪れとともに精力的な制作活動を始めたゴッホは、3月から5月にかけて、水路にかかるはね橋を複数描いている。この種のはね橋自体はさほど珍しいものではなく、南仏やゴッホの生まれ故郷のオランダには数多く存在しており、もっと規模の大きいものをあげれば、ロンドン・テムズ川のタワー・ブリッジ、東京・隅田川の勝鬨橋もその範疇に含まれるだろう。造形的には橋が開いて上がっている状態の方がおもしろいと思われるが、ゴッホはあえて閉じている方を選び、そこに幌馬車や日傘をさす婦人を通過させている。
その中で最も完成度が高く、よく知られた作品は、クレラー=ミュラー美術館所蔵の本作である。透明感のある青い空を背景に、木の橋と煉瓦積みの道が見事なまでにゆるぎない画面を構成する。一転して、橋の下を流れる水は波紋を描きながら前景へと広がり、洗濯に忙しい女性たちの動きや手前の下草のリズミカルな描写とともに、画面に躍動感を与えている。そうした効果は計算された色彩にも当てはまる。ゴッホはパリ時代から補色の効果に関心をもち、何点もの作品で実践していた。本作では、空と水の青色が、はね橋・道路・土手・下草の黄色や褐色と際立つ対照を示し、見る者に鮮烈な印象を与えている。
この制作とちょうど同じ頃、ゴッホは友人ベルナール宛の手紙にこう書いている。「清く澄んだ大気、明るい色の効果のために、この土地は日本のように美しく見える。水の流れが、景色の中に美しいエメラルドと豊かな青の筋をつけている。大地を青く浮き上がらせる淡いオレンジ色の夕焼け。黄色のすばらしい太陽。しかし、僕はまだ通常の夏の輝きの中でこの土地を見ていないのだ。」アルルの夏の輝きを夢見る画家の想いが、手紙の中に、そして作品の中にも溢れているのではないだろうか。
ゴッホが描いたこのはね橋はその後撤去されたが、1960年代にアルル郊外に復元され、「ファン・ゴッホ橋」という名で現在も親しまれている。

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